毒壺

本音。 世の中にこれまで生きて思ったことをここに記す。 重要な事から下らない愚痴まで。

看取り・理想的な最期

パートナーを若くして失った。(53歳没)
最期を迎えるについて色々失敗してしまったので、他の人に同じような失敗を繰り返して欲しくない、という思いと、何か残しておきたいなと思ったので記録することにする。

抗がん剤が効かなかった、ということで10%の可能性だが別の抗がん剤の治療法もある…と医師に選択権を与えられたが、本人が「投与がつらい、もう勘弁してほしい」とのことで断腸の思いで本人の意思を尊重し治療を断念することになった。

自宅で療養、そして訪問医が診察して自宅でちゃんと面倒を見て看取ることにした。
本人の両親は既に他界。自分の両親は健在なので実家で皆で面倒を見、看取る、という選択肢もあった。
だがお恥ずかしい限りで、これまでずっと実家とものすごく折り合いが悪く看取りの相談をすると、「何をいまさら」と取りつく島もなく断られた。
しかしいくら折り合いが悪いからと言って、命がかかっている、最期の看取りですら付き合いを断つとは…
金銭的に余裕がない実家ではない。単に人としてぐうの根も出ない畜生なのだ。
うちが異常なのはそれが父ではなく母というところ。
だがのちに、本人に何の馴染みもない住まいから離れた私の実家で最期を迎えなくてよかった、と思うことになる。

自宅療養開始時は痩せこけてはいたが一人でなんとか自宅での生活が何とか出来ていた。
しかし日ごとに出来ることが少しずつ減っていった。
忘れもしない。本人から「もう、助け無しでは無理かも…」と申告があり風呂、トイレが一人で無理になり、支えてそれを介助することになった。
その作業で私はすっかり腰を悪くしてしまった。
その後布団から起き上がりが困難になり、それも介助。
起き上がらせれば食事、歯磨きなど自分で出来ていたのが手に握力が無くなっていき日を追うごとにそれも介助となった。
ついに寝たきり、起き上がれなくなり食事、歯磨きも困難な状態に。
私も立ち眩み、腰痛の悪化で不機嫌になったりすることがあり、自宅の空気も悪くなっていった。

それでも最後まで私が面倒を見、住み慣れた自宅で最期を迎えさせてあげるのが自分の責任だし、本人も幸せなことだ、と思い込んでいた。

次第に本人が「訪問介護の人が帰ってあなたが仕事から帰って来る間、暗くなってくる部屋で一人で待っている時間が寂しい、もうホスピスに送ってほしい」と言われたが、それでも私は住み慣れた家に居て訪問介護の方に面倒見てもらうほうがいいと思っていた。
しかし次第に処方されていた飲み薬では苦痛を押さえられなくなり病状も進行したのか痛みに耐えるような時間帯も増え、さらに季節的にも熱さ寒さのコントロールも困難になっていった。
やがて家に居ても本人も心に余裕がなくなり口数も少なくなっていった。
「もう終わりなんだし病気に耐えている、闘病してるんだから話しかけるな、放っておいて」と言われてしまった。

子供も授からなかった二人。家には二人だけなので本人がもう全ては終わった、と塞ぎ込みがちになって会話もない、ただ黙ってBSなりCSをぼーっとみているだけの重苦しい、楽しくも何ともない看取りになりかけていた。

本人からの強い要望、そして訪問診療の医師からも、自宅での看取りも一人だけでは限界ですよ、とホスピスを勧められ不本意ながら入院させ病院での看取りに変更した。

しかし…慣れているといえばそれだけのことかもしれないが、いざホスピス病棟にお世話になると病院にありがちな、仕事に追われカリカリしているとかぶっきらぼうな看護師は皆無。皆患者にやさしく、寄り添うような心も含めたケアを行ってくれた。

痛みもモルヒネなどで終末期医療専門の薬で対応していただけたので苦痛が減り、自宅にいた頃より状態が改善した。
日を追うごとに本人の明るさが戻っていった。
思い出話とか最期を迎えるにあたっての命の話とか、いろいろ看護師の方は話し相手になってもらえて心のケアもして頂いていたみたいだ。

大変ありがたかった。
私は毎日仕事が終わってから病院にいくというのはちょっと手間だったし、自宅に帰ると独りぼっちという状態になったが、それでも本人の心の状態を明るく、元の状態にして亡くなってほしいと切に願っていたので、本来の穏やかな心の状態が取り戻せて本当によかった。

抗がん剤治療を中止してから丁度1か月、人間として出来る最後の作業、呼吸をする間隔が段々広くなり、それがついにできなくなって臨終を迎えた。
夜中に泊まり込み。横で仮眠していたら見回りの看護師に「そろそろかも」と教えてもらい、このブログの写真のように手を添えたら間隔が暫く普通に戻った。嬉しかったのかな?
しかし手を添えたままベッドの横で椅子に座りうとうとして一時間経過した頃気が付いたら呼吸が止まっていた、という最期だった。

最期まで住み慣れた自宅で過ごしてもらい、責任をもってそれを私が面倒を見るのが相手への誠意、という自分なりの思い、という身勝手な考え方だった、と穏やかな最期をホスピスで迎えたという結末をもって思い知った。
家にずっといて欲しい、少しでもずっと一緒にいたいという自分のエゴだったのかもしれない。
穏やかに過ごしているうちに、病状が悪くなる前、それは本人に謝罪した。

そして病院から安置所に移動させる際、是非最後の面会をとのことで劇団の仲間が10人ほど駆けつけてくれてキリストの逝去後の祈りをして送り出してあげることができた。

当然私の親たち、親族は誰一人駆けつけなかった。
あの時実家で渋々面倒を見ることになっていたら、現住所からは離れているので本当に故人を偲んでくれる人たちは駆けつけられなかっただろうし、嫌々義務で来ている私の親族たちだけに送りだされていたかもしれないと思うとゾッとする。
本当に私の実家で最期を迎えなくてよかった。

人によっては幾ら苦しくとも自宅がいい、と考える人もいるのでしょうから絶対、とは言い切れません。たまたま自分のパートナーと病院の相性が良かっただけなのかもしれませんが最期はやはりプロ、ホスピスで心も身体もケアされ穏やかに最期を迎えてもらうのがいいと思います。